私の独断的な自己紹介です

私の自己紹介をします。全部読むとアホらしくてとても疲れると思いますので適当にご覧ください。




昭和20年生まれ・酉年・血液型A型・ 几帳面で行動型のお人好し技術屋タイプ
取り柄と言っても特になし。しいて言えば声が大きいのでアナウンサー向きタイプ。
これまでお金や女や酒で身上を潰した経験なし。ただし小さなミスは数知れず。
自分の信念で賭け事と煙草(経験なし)は一切やらない。
しかし、仕事での勝負は行け行けドンドンで脱線多し。
近年は後進に道を譲って悠々自適?の生活をしている。
前科も金もなし。過去に交通違反数回あり、但し現在はゴールド免許証。

 [仕事上の有資格]
第3種電気主任技術者・1級電気工事施工管理技士・第1種電気工事士・
蓄電池設備技術者・アナログ第2種、デジタル第3種工事技術者・
甲種4類、乙種7類消防設備士・建設業経理事務士2級・電気工事監理技術者
 ほかにもいくつかの技術関連数資格を有(している

主な略歴

昭和20年・
 愛知県豊田市(旧、挙母町)の下町でB29の空襲下で超貧乏な電気工事屋の長男に生まれる。
          父の実家は豊田市内の小作人で、これまた超超貧乏の家だった。
          地元の挙母小学校(初恋体験)、崇化館中学校(片思い体験)をいじめられずに無事卒業した。

昭和39年・ 愛知県立愛知工業高等学校電気科を優秀ではない成績だったが無欠席で卒業。
          (学校の思い出といえば体育祭と別のクラスの女生徒に超片思いの3年間の思い出くらいしかない)
          体育祭などの電気科の応援団長をやり声が大きくなった。工業高校では珍しい文芸部所属で趣味の短歌を始める。

    
同年、  新三菱重工業(株)名古屋航空機製作所 (現、三菱重工)に入社し、飛行機の生産技術課に配属される。
          初めて相手の女性から一方的に好意を持たれるが淡い思い出に終わる。理由は私のさえない容姿と金欠病であった。

          
(お金がなくて床屋に4ヶ月に一度しか行かなかったためである)
          F-104戦闘機やYS-11国産旅客機などの勉強を経て国産多用途機MU-2の翼の前縁製作の生産技術補助を担当する。
          しかし私の在任期間中にMU-2は小牧空港で試験飛行中に脚が出ず2度の胴体着陸を敢行。
          これにより世間に一躍有名となったが、民間ではさっぱり売れないため航空自衛隊に採用され、
          今も現役で活躍中。その後、胴体着陸なし。ただし墜落あり。

            

昭和40年・ しかし大企業では高卒ではウダツが上がりそうもないので三菱重工を辞めて、大阪の二美電気商会に丁稚奉公
          に出る。社名が3から2に昇格したが会社の格は月とスッポン。

昭和41年・ 約半年の修行のところで、父の電気工事屋が従業員の使い込みで危機的状況になったため
          やむなく帰省し、父親の会社の旭電気商会に入社する。その直後に技術の習得のため、
          トヨタ自動車上郷工場の電気保守部門へ外注派遣社員として約半年通って勉強する。

昭和43年・ 新三菱重工時代から付き合っていたスミ恵と、両親の反対を口説いて22歳で結婚を敢行。
          今のカミさんと知り合ったことが三菱勤務で最も大きな出来事とメリットだった。   (敢行が大好き)

昭和46年・ 父親の大反対を押し切って電気工事から手を広げ、照明の販売に乗り出し3階建ビルを造り「旭電気照明センター
          の開店を敢行。このとき26歳ではじめて大きな借金をする。
          しかしその後の好景気とオイルショックの反動で照明器具が売れに売れて借金は瞬く間に解消。
          この頃から世間を甘く見るようになり金銭感覚と経営が甘くなる。

昭和54年・ 工事と販売の兼ね合いなど経営上の問題により、旭電気商会から独立して
          「
宮田電工株式会社」を設立し、代表取締役となる。このとき初めて鶏口となる。(私は酉年)
          そのためまた大借金を作り、この頃から借金が大好き人間になる。栄町6-3-7へ新社屋を建設。

昭和56年・ 地元の商店街組織「若宮町発展会」の会長を押し付けられ、ここから商店街活動を始める。
   同年、 
 豊田中央商店街振興組合青年部を創立、副会長になる。
   同年、 
  好きな飲み会の機会を更に増やす為、地元の住民親睦団体の「若宮会」を組織し、勝手に会長となる。

昭和57年・ 数年前から始めた趣味の書道で豊田市民美術展に入賞し、以後6回連続入賞を果たす。
        
書道教室の普段の練習ではほとんど筆を握らず、夜な夜なスナックでグラスを握って取れた賞であった。
        
同年より毎日書道展に3回入選。日本刻字展に3回入賞。これらもまたアルコール漬けの作品。

昭和58年・ 豊田中央商店街振興組合理事 兼 青年部長に就任。飲む口実つくりの一環で引き受ける。
   
同年、  豊田中央地域商店街振興計画策定事業委員・若宮町都心開発推進協議会会長になる。
          市長の肝いりで「豊田市市政モニター」にもなった。
          どの肩書きも名前は立派であったが、その後の成果は・・・・ ?。
          これまでの下町の「とよた祭り」に疑問があって「魅力ある豊田まつりを考える会」を組織し会長となる。
          その活動が実って今日の「豊田おいでんまつり」に発展。これは予想外の大成果(大正解)。

昭和59年・ 豊田市長選挙で街宣部長を2期務める。
          仕事は選挙事務所で毎日ゆで卵を作ることとアゴで人を動かすことだった。
          で、その甲斐あって我が候補が市長に当選。万歳。

   同年、 
 愛知県電気工事業工業組合青年部幹事を6年間歴任。名古屋で飲む口実が出来たので朝帰り。
          書道で愛知県文連美術展に入選。まったくのまぐれで賞。

昭和61年・ 愛知県商店街振興組合連合会理事 兼務 青年部長に就任。
   同年、
  愛知県から愛知県商店街総点検調査委員会委員を仰せつかる。
           ますます名古屋で飲む機会が増えた。いいぞ、いいぞ。
    同年、   豊田商工会議所青年部創立、副部長に就任。
   同年、 
 豊田西ロータリークラブに入会。ただし周りの偉い人たちに圧倒されてただ参加しているだけ。

昭和62年・ 全国商店街振興組合連合会青年部副部長になる。いよいよ飲む場所は全国まで広がる。
          ありがたや、ありがたや。

   同年、 
 若宮町発展会を解散して新豊田商店街振興組合を設立、初代理事長に就任。時々は地元で飲む。
   
同年、  豊田商工会議所中小企業情報サービスシステム研究委員会委員になる。
        
同、街づくり特別委員会委員もついでに引き受ける。
        
この視察とやらの名目で全国の味栗毛をやらせていただきました。
    同年、
   豊田市観光基本計画策定委員会の委員になる。こんどは観光視察で酒が飲めるぞ。
   
同年、  思うところあって「矢作川を筏で下る会」を組織し、代表となり「第1回矢作川筏下り大会」を開催。
           以降毎年開催して20年無事故で終了した。これは私の人生の中でも少ない大ヒット企画であった。
           毎年大会が近ずくと天候が心配で空を眺めてばかりいるので他人に瞑想にふけっていると思われていた。

昭和63年・ 豊田市商店街連合会理事に就任。
   
同年  豊田商工会議所青年部長になる。
        
これらの役職にはあて職がいっぱい付録のように付いてきた。
   同年、
  豊田市長寿社会基本構想策定懇話会委員になる。この頃から老後を心配するようになる。
   同年、
  豊田おいでんまつり実行委員就任。来賓ひな壇上はどうも居心地が悪い。自分に向いてない。

平成 元年・
豊田市観光基本計画策定委員会委員に再任。
          この年、宮田電工の本社移転、栄町6-6-9へ新社屋を建設。うれしいことにまた借金ができる。

平成 2年・ 日本文化デザイン会議豊田会議実行委員になる。
   同年、  
豊田視聴覚技術研究会を設立、初代会長に就任する。
          業界の運営は難しいが何とか纏めることに成功する。

平成 3年・ 豊田文化デザイン会議会員として「第1回豊田文化デザイン会議インターシティフォーラム」
          を開催。 燃えに燃えながら、やっていることはいつも飲み会ばかり。

   同年、 
  NTT懇話会委員になる。天下のNTTさんのご接待で飲ませていただき感謝。
   同年、
  浜名湖の保養所予定地を購入。翌年保養所を建設し、ボートも水上バイクも買った。
          現在はこの浜名湖の保養所を自分で会社から購入して悠々自適の場所になっている。


平成 4年・ 
愛知県中小小売商業活性化ビジョン策定委員会 委員になる。
          日本国内絶滅危惧種の小売商店街を絶滅から守るための救世主になれるか。
          内外情勢調査会会員になる。難しい政治の話を聞きながらの食事はおいしくなかった。

平成 5年・ 豊田商工会議所青年部OB会を設立、副会長に就任。老いても相変わらず飲み会三昧。
          OBといえどもみんなまだまだ元気。

    同年、 
 昨年の小売商業の関連で愛知県適性包装推進委員会の委員になる。
          要するに無駄な包装をやめて商店街が少しでも儲かるようにしましょうということ。

平成 6年・ 売れなくなった照明器具をやめて「旭電気照明センター」を改装し、
          ランプの専門店「
ランブハウス アサヒ」を開店。
          照明では儲からなくなったのでランプ専業に転進したということ。


平成 7年・ 
国の中小企業事業団の商店街活性化事業の一環で、現代からくりロボット研究会会員に就任。
          からくりロボットを開発して全国の商店街に広めようという壮大な企画に一役買うことになる。
          そのおかげでまたまた全国行脚。

平成 8年・ 人生の節目の記念にと、人生折り返し50周年記念誌あははの本を発刊。
          出版記念パーティでは250人ものお客様で、大騒ぎ。のんべえの集大成ができた。
          それまで飲み屋で書いてきた絵や文を本にしただけだけれど、自分で言うのもなんだけど
          大好評でした。
          本は全部タダで配ってしまった。少しお金はかかったけれど大満足。
          で、まだまだ人生の半分の所ということで相変わらず飲んでます。

平成 9年. 遂に9月に父が他界する。精神的なプレッシャーはこれまでで一番大きいものだった。
           父の最後の言葉 「おまえは面白い奴だ。俺は楽しい人生だった」 の一言で救われた。


平成12年. 
任意団体、豊田市異業種交流会「アルキメデス」を設立し、初代会長になる。
   
同年、  豊田商工会議所青年部OB会(BLC)会長になる。
 
   同年、  豊田法人会豊田中支部委員になる。

平成13年. 父を追うように母が3月に急に他界する。
           父の死後、母が 「思い残すことは無いから、いつ死んでもいい」 といっていたのが思い
           出される。

   同年、 
豊田商工会議所議員になる。第1商業部会委員に配属。
          これには「豊田スタジアムを活かした街づくりの会」の委員もついてきた。

  
 同年、  経営私塾、「談風塾」に入塾。

平成14年. 
豊田市産業振興委員会委員に就任。学者さんや大企業の社長さんと丁々発止する。

平成15年. 私の出版本第2弾「おじさんの詩」(人生は酒とともに)絵とエッセイ集を2月15日に刊行し、
          東京・文芸社より全国発売される。
          本のどこが良かったのか、それともアホらしかったのか面白かったのか分からないが
          発売してすぐに出版社の在庫が無くなって第2版となった。その後すぐ売れ行きストップ。
          「ハイそれまでよ!」でした。
          2月23日は、またまた250名の参加者で出版記念大パーティを敢行。
          これで私の3年分の小遣いが全部無くなった。この先途方にくれる毎日が続く。おごってくれ!。
          6月に「おじさんの詩」(人生は酒とともに)の本がCBCテレビで2回も紹介される。

平成16年. またまた思うところあって新会社、ECMC株式会社を設立。代表取締役に就任。
          ITベンチャー事業を開始。ついに人生最後の大勝負に出ることになる。
          ジャジャジャジャーン!!・・・・・ではなかった・・・パンパカパーン!!!


平成17年. 
そして今年は酉年。私もついに今年の誕生日で満60歳の還暦になりました。
          これを機に昨年から宮田電工の事業継承の準備を始めました。
          今年中は無理でも来年くらいにはバトンタッチと行きたいと思っているこの頃であります。

平成18年. そして61歳直前の今年6月、ついに宮田電工(株)を無事に(定年?)退職。
          社長を退任して新たに若い新役員も登用しました。
           私はとりあえず常勤取締役会長に就任して、新社長や新役員の補佐と指導に務めます。
          そしてこれからいよいよ私の本当の人生 ??? の始まり始まり・・・。
          

平成19年. 豊田法人会豊田中支部副支部長に就任。
  
 同年、  10月からブログで短編小説「刻の煌き」を執筆開始。アクセスはこちらをクリックhttp://biog.goo.ne.jp/atayim88/

平成20年. 4月から愛知学泉大学経営学部に社会人聴講生として入学。新たな挑戦開始。
          楽しいキャンパスライフが始まりました。(青春が戻ってきたみたいで刺激的 !)


平成22年. 4月から東海学園大学・大学院・経営学研究科修士課程に正式入学。またまた新たな挑戦開始。
          経営学を更に勉強して、新しい事業を立ち上げたい???・・・ 
          (「まだ変なことやるの」、というカミさんの声が後ろから聞こえてきたような・・・・)

        ということで忙しくなったので儲からないECMC株式会社は6月で廃業しました。
    同年、  豊田商工会議所議員の所属が建設業部会に変更になる。
    同年、  日本マネージメント学会に入会、会員となる。老いてもまだ勉強、勉強。

平成23年. 事業承継学会にも入会、会員となる。さらに勉強また勉強・・・しながら美味しいワインを飲む毎日。
    同年、  日本マネージメント学会中部部会で初めての論文の学会報告の栄誉を与えられ大成功に終える。

平成24年.
3月、東海学園大学・大学院・経営学研究科修士課程を修了。
          学長賞をいただき、卒業式の総代を務める。その後、盛大に記念謝恩パーティを挙行。

    同年、
 4月、念願のクィーンエリザベス号でドバイからイギリスまで22日間の航海旅行達成。最大の目的のスエズ運河を通過。
         友人の期待に反して旅行中は夫婦喧嘩なし。

    同年、 6月、東京の日大で開催された「日本マネジメント学会第65回全国大会」で論文の報告発表の機会
         を与えられる栄誉に浴する。テーマは「親族以外の後継者への事業承継」で、好評を得る。
平成25年.4月、あこがれの南米マチュピチュ・イグアスの滝・ナスカの地上絵を旅行。
   同年、 5月、公益社団法人豊田法人会理事・豊田中支部長に就任。

平成27年. 1月から2月にかけて、プリンセスクルーズで遂にパナマ運河を通過。これで世界3大運河(アムステルダム・スエズ・パナマ)を制覇。
    同年、 約1年かけて執筆した本、
「後継者がいない ! バカ息子より猫に会社を継がせたいと考えている経営者へ」を3月に出版。大好評。
          その後約2か月後に増版第二刷となる。

    同年、 8月8日、ついにめでたく古希を迎えました。古希のお祝いパーティを賑々しく行いました。
平成28年.前年に本を出版してから毎月のように講演依頼が来るようになりました。こんな年寄りでも社会のお役にたてることはうれしいことです。
    同年、 2月にノルウェー北極圏の船旅で初めてオーロラを見ることができました。
          また、10月には南アフリカ他4ヶ国を回ってビクトリアの滝やサファリを楽しんできました。これで世界3大滝を制覇しました。

平成29年.2月に経済産業省から自民党の事業承継施策小委員会で参考人意見陳述に呼ばれました。新しい施策について提案させていただきました。。
    同年、 3月にアメリカ東部のニューヨーク・ワシントンなどを回り、5月はクロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツェゴビナ・南イタリアなどを回ってきました。
          また、9月には中国湖南省・武陵源に行ってきました。この間に少しづつ講演活動もしています。
平成30年.3月にベトナムとカンボジアに、5月にエストニア・ラトビア・リトアニア・ポーランドを回ってきました。

令和1年.
3月にイスラエルに、10月にウズベキスタンとカラパルパクスタンを回ってきました。これで約80ヵ国以上の国を訪問しました。

令和2年.8月にとうとう後期高齢者になりました。乗っている車もこれまでのジャガーのスポーツカーから年齢相応のレクサスに変えました。

         
長い文章を飽きずによくここまで読んでいただき感謝します。


私の資料

自宅 : 愛知県豊田市

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趣味  :  
基本的に無趣味だが、物好きで短歌・ 書 ・ 画 ・ 酒 (特に友人と楽しく飲むこと)・ お祭り騒ぎなら何でも ・
          仕事 (これは建前、本音は・・)・海遊び ・ 釣り (これはまだ駆け出し) ・ 国内外の旅行

  あなたから私へのメッセージ(メール)は oreore@live.jp 宛にお願いします。


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          最近の私と家族 こんなことがありました
          私からのメッセージ あんなこと、こんなこと
          会社紹介 宮田電工株式会社 私の勤務先です
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